この作品は、ガレの晩年の作品の中でも、特にガレが「死を意識して」つくった「ガレの中のガレ」と言える作品です。
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私たちは、普段「自分の死」を意識することはほとんどありません。
もし、自分が眼前に「自らの死」を直視しなければならない状況に追い込まれたとき、私たちは何を感じ、何を見るのでしょうか。
18世紀から19世紀にかけ、ヨーロッパを発端に広がりを見せた産業革命は、大きな技術革新をもたらし、人々の生活を豊かにしました。
しかし反面、産業革命は「貧富の差」を引き起こし、都市部の人口は過密し、街は不潔を極め、疫病がはびこりました。
ガレが活躍した19世紀後半のヨーロッパは、まさに産業革命によって引き起こされた「矛盾」が蔓延した時代でした。世紀末です。
産業革命によって「科学」が大きな進歩を遂げるまで、ヨーロッパはまだキリスト教による「宗教支配」が大きな力を持っていました。キリスト教のルーツをたどっていくとゾロアスター教に結びつきますが、ゾロアスター教は別名「拝火教」とも言われており、二元論を解いた宗教です。「善と悪」という意識です。
そのゾロアスター教で「悪」とされていたのが「原始(自然状態)」です。
つまり人類が「原始に帰る」ことは「悪である」という意識が、ゾロアスターの影響を受けたキリスト教文化であるヨーロッパの文化には根付いているのです。
例えば、「人間はもともと性欲を持った動物なんだから、仕方ないじゃないか」と言って、やたらめっぽうかまわずセックスをすれば、文明社会では「逮捕」され罰せられます。このように人間を「戒律」で司ることが「文明」の発展の根本であり、またそれが人間の理性でもあり、それが人類の文明を発展させてきた力とも言えます。
その「戒律の力」「宗教の力」は、産業革命以降、急速に薄められました。
科学が進歩し、「神の存在」それ自身が疑いをかけ始められました。それがヨーロッパの近代の様相です。
しかし同時に、「原始に帰る」「自然に帰る」事は、自分たちの発展の歴史を否定することにもつながりかねないことから、ヨーロッパの近代の苦悩が始まったのです。
ボードレールの『悪の華』が発表されたのもこの頃です。
ボードレールは幼い時に父親を亡くし、母親は別の男と結婚、母親を「母」としてではなく「女性」として見てしまう、母親の着ていた服に顔をうずめて喜びに浸っていたという少年時代のエピソードも残されています。このような「自然性」は、いくら「神なき世の中」であっても、文明のうちにあっては許されることではありません。当然、裁判では有罪になりました。しかし、明るい未来の到来を見通せない世紀末、人間の多様な面を、その汚れた部分(動物的、原始的、自然的)をも直視したこの作品は、近代文学の金字塔とも言われています。
何人もお前の心の深さを測りえなかった。
海よ、何人もお前の奥底の富を知ることはできない。
それほどに、両者はあくまでも自らの秘密を守ろうとしている。
(ボードレール『悪の華』「人と海」の一節より)
1982年、ガレは国民美術協会展に海藻と貝殻を彫刻した紫色のガラスの小瓶を出品しました。その作品に、このボードレールの詩が刻銘されていました。
人が深海の暗い奥底に蔵された富の豊かさを窺い知れないのと同様に、人間の心の深淵も容易にはかりがたい
暗い海の底の様相を、もはや花器の元の形が判別できないまでに海藻や貝殻を「グロテスク」なまでにまとわりつかせたこの《海藻文花器》。自らの死を意識したガレが、この海の底の様相をどのような感情を持ってつくりあげたのでしょうか。死がもう目の前に見えていながら、なおも「海の奥底が見えないように、人の心の奥底も見えない」と人間の苦悩を表現したこのガレの作品は鬼気迫る迫力が宿っており、ガレが死んだ後の今であっても、その迫力は私たちの胸を強く打たずにはいません。

現在作品が展示されている様子です。
ガラスの作品は光の具合で見せる表情が変わってきます。
海底を表現した「どす黒かった」この花器に、光をあてると、光をあてるまでみえなかった様々な色彩、赤い色、黄色、色彩の変化が見えてきました。
海底に光が差し込んでいるような感覚を、
ぜひ、美術館で味わってください。
(文責 坂上しのぶ)