『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』
わたしたちはどうしてここに存在して、生きているのか。
素朴な疑問ですが、科学が進歩した今でさえ、誰もそこに答えを見出すことはできません。
「科学の時代」に突入しはじめた19世紀末、ガレもまた私たちと同じように、生命の神秘を感じ、その問いを生涯をかけて追求し、想いを作品に託しました
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産業化によって、人々の生活は便利になり、飛躍的な文化の進歩をとげた世紀末ヨーロッパ。
しかし反面、都市に人々は集中し、貧富の差、公害、疫病に、都市は悩まされていました。
人々はあらためて「自然」の存在へと目を向け始めました。今の「エコブーム」と似たような現象が、ガレが活躍した19世紀末にも起こっていたのです。
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1846年、フランスの東部ナンシーのガラス器、陶器の発行者兼卸売業者であったシャルル・ガレの長男として、エミール・ガレは生まれました。
両親ともに植物が好きであったからか、ガレは「数学さえ大嫌いでなかったら、その道で学位を取って、つつましい芸術家になるかわりに、薬科学校でつましい植物学教授にでもなっていたかもしれない」と言う程に、植物に興味を持っていました。
ともすれば人間よりも豊かな表情を見せる植物たちの姿に魅せられたガレは、同時に、植物のまわりを飛び回る小さな小動物たち、昆虫たちにも深い愛のまなざしを注ぎました。

蜻蛉文脚付杯 1904年頃
この作品は、「蜻蛉(トンボ)」の姿を作品に織り込んだガラス作品です。
蜻蛉が2匹、寄り添うように飛んでいます。

蜻蛉の成虫は、子孫(しそん)を残すために卵を産みます。
卵から生まれ出てきたヤゴは、水の中で生活をはじめ、やがて成虫となり地上に上がり、大空を飛び、地に落ちて死んでいきます。その子供たちもまた水中に育ち、地上に上がり大空を羽ばたき・・・。
水から生まれて大空を飛びかい、また水へと帰っていく・・・そういった蜻蛉の生態は「私たちはどこから来たのか、どこへ行くのか」そういう永遠の生命の疑問を解き明かすひときわ象徴的にガレの目には映りました。
『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』
この有名な一節は、タヒチを題材にゴーギャンが描いた代表作のタイトルです。
パリの生活から逃れ、タヒチへと向かったゴーギャンのこの言葉からも伝わってくるように、産業革命によって「科学の時代」へと突入したヨーロッパは、それまで自分たちの価値観を作り上げていたキリスト教の「宗教の時代」を否定せざるをえない面に多々直面する状況に陥っていました。自分たちの文明はおろか人格形成までをもつかさどっていた価値観(神への畏怖心や宗教の力)が総崩れし、神が「泥をこねて」つくりたもうた「人間(アダムとイブ)」がもはや「作り話」となってしまったのです。
この頃、哲学者のニーチェは、「永劫回帰」という新しい生命のありかたを提示しました。この「永劫回帰」とは、「いま、わたしたちが体験しているこの瞬間は、たった一回だけの瞬間ではなく、仮に生まれ変わったとしても、まったく今自分が体験していることと同じ瞬間を体験することになる」という考えです。
これまでヨーロッパを支配していたキリスト教は、神の子イエス・キリストはよみがえり天に昇りました。人間は死んで終わりなのではなく、神の審判が死の後に待っています。また、仏教には、死んだ霊魂が新たな「命」として何度となくこの世に生まれ変わってくるという「輪廻転生」という考えがあります。
ニーチェの「永劫回帰」はキリスト教とも仏教とも違う生命観です。「罪人は裁かれ、地獄のゲヘナに落とされる」わけでもなく、新しい何かに生まれ変わり新しい人生を送れるわけでもなく、「生まれ変わっても所詮おなじことの繰り返し」というこのニーチェの考えは、非常にニヒルな面を感じさると同時に、19世紀のヨーロッパを象徴する哲学思考です。
近代化はしたものの、人々の生活はかえって不自由を強いられ、精神的な苦しさに苛まれてしまっている、これまでの文明の発展はいったい何だったのか、人類の発展の歴史をもはや喜びとともに受け取り明るい未来を見ることなど出来ない、世紀末のニヒル。
「人間は生まれ変わることなく、いつもおなじことを繰り返すのだ」。

ガレの2匹の蜻蛉。見ていると、一匹はとても「実体的」ですが、よりそうようなもう一匹は、まるで「影」「分身」のようにも見えます。

影のように寄り添う蜻蛉の頭の後ろには「後光」のようなものが輝いていて、この世のものとも違うような存在感を放っています。
蜻蛉を主題にした脚付杯は晩年のガレの代表するモデルのひとつです。
一説には、白血病に冒されたガレが親しい友人たちに形見としてプレゼントするためにつくったものだと言われています。ほとんどのそれはベージュ系の地の色に蜻蛉の姿が映し出されたものであり、マザックのコレクションのように「青い地の蜻蛉」は非常に珍しく、他に例を見ません。
自らの死に直面したガレは、いったいどんな想いでこの「蜻蛉」を友人たちに贈ったのでしょうか。「蜻蛉の人生の中に、生命の有り様」を見たガレですが、いったいそこに何を感じ取ったのでしょうか。
霊魂のようによりそうこの光に満ち溢れた「影の蜻蛉」に、その答えのヒントが隠されているように思えてなりません。
死を目前にして、なおも生きることの苦しみ、人間の心の闇の深さに苦しんだガレ。
青いガラスの中の2匹の蜻蛉は、いまもなお『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』という問いに答えを出せないわたしたちに、水の中、大空を自由に泳ぎ、飛びまわる蜻蛉の自由な姿をとおして、人生の業とニヒルと同時に、懸命にいきる人間の姿の尊さを見せてくれています。
(文責 坂上しのぶ)